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昔の記憶 [その他]

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今日のお話はちょっと能天気なこのブログにはそぐわない内容かもしれませんが、ふっと思い出したので書いてみたいと思います。怖い話しではないので、ご心配なく。

いつの頃だったかと考えてみるとそれはまだ35年ほど前のこと。とはいえ、もう35年も経っているのかと感じます。当時私が住んでいたのは東京の外れ、江戸川区でした。「0m地帯」と呼ばれ、ちょっと大雨が降れば道路は水没し、床下浸水なども当たり前の地域でした。年に2度くらいは近くの水門で土左衛門が上がっていて、子供の頃には「見るんじゃない」なんていわれました。当時は夏になると水難事故もときおり身近にあったものでした。

荒川に作られた堤防は高さこそ十分でしたが、まだ砂を板で囲っただけの作りで台風が来れば決壊することも珍しいことではなく、江戸川区は金魚の養殖で知られることもあり、台風の後はその辺の水路で金魚すくいが出来るような時代でした。昭和とはいえ、なんとものんびりした時代です。もちろん大きな台風では家も水没し、家の中から船に乗せられ逃げた記憶もあります。

江戸川区自体が江戸川と荒川によって作られた三角州だと思うのですが、幅10mほどの水路があちこちに走っていましたが、当然水路を渡るために小さな橋が架けられます。ところがそんな狭い水路なのに場所によってはとても橋を架けるのが難しい場合があるようです。

ときには2年、3年と過ぎても橋が完成せずにいたことがありました。さらに時間が過ぎてどうやら太鼓橋のような橋が架かったのですが、当時その橋桁には人柱が使われたと噂が立ちました。実はほんの30年ほど前には東京ですら「人柱」なんて言葉がまだ残っていたんです。他の橋でも、「あそこでは2本・・・」などと噂が出たこともありました。

ことの真偽はわからないというよりも、そんな事実はあり得ないと思いますが、私はそんな噂を聞いても「何年も橋が架けられないんじゃ、そんなこともあるかもしれない」と感じたことを覚えています。どんな人が人柱になるのか、誰に聞いたのか覚えていませんが、工事に当たっていた人夫の中から選ばれたと聞いた記憶があります。当時はけっこうあちこちでそんな話しがあったようでした。もちろんその後人骨が出たという話しは聞いていません。
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