実は私、釣りも大好きです。一番好きなのは渓流釣りだけど、もちろん海釣りも好きだし、バス釣りも大好きだったりします。でもやるのはルアーを使ったものだけで、それもワームと呼ばれるゴム系のものはほとんど全く使わずに、ハードルアーばかりです。


<カージナル33>リターンスプリングが3度折れて、その都度交換。いまはこのリール用に作られたサードパーティのスプリングに交換して使っている。糸の撒かれる形を調整したり、あちこち調整したりで本当は傷だらけで塗装も禿げているけど、写真では全然目立たないのが不思議。これは90年代の始めからだから15年以上は使っているかなぁ


ルアー釣りの良さは生き餌を使わずにすむので手軽にできるということもあるけど、ただのプラスチックや木、金属の固まりを自分の思うように動かして、魚を釣り上げるのが面白いわけです。たかが魚釣りなのにこれほど夢中になれるのは、私の中にも狩猟本能というものが少しはあるんじゃないだろうかって思うほど。たぶん釣りをしたことがある人ならわかってもらえると思うけど、魚がかかったときに手に伝わる「ぶるぶる」っていう感覚は、ときに膝が震えるほどの興奮をもたらしてくれるほど。


<シェークスピア>大森製作所は1952年に創業した埼玉の釣り具メーカーで、もう会社自体がなく、専用パーツは手に入らない。でも違うリールのバネをカットして、ボディにピンバイスで穴をあけて現物合わせで調整。バネの強さも調整していまでも快調に使っている。買ったのは1970年代なので、もう軽く30年だ


それはさておき、ルアーを投げるには「リール」が必要になるけど、私が使っているのはもう何十年も前のもので、いまはもう会社自体がないものもあります。もちろん私も最先端のシマノやDAIWAの、1つ5万も6万もするリールを使ったことがありますしいまも持っているのですが、やはり使うのは古いリールになってしまいます。

「古い人間は古いものが好き」ってのも確かにありますけど、そればかりでもありません。古い時代のものは人が使う道具であって、いまのものはどうも「良い機械」ではあっても「良い道具」にはなれないようなんです。どうしてなんでしょうね。

たとえば最新の何万もするリールは精度が良くて、ギアの噛み合わせさえ感じられないほどのスムースさ。もちろんガタもなくて回したときのバランスも最高で、機械としての性能はさすがです。ところが人の指の長さが考えられていないので、重要な糸が出て行くときのコントロールがとてもやりにくかったりします。そして釣り場に砂はつきものですが、ちょっとした砂が風で飛ばされたくらいでも、精密なギヤは噛んでしまい動かなくなってしまうことがあります。不測の事態、不慮の事故に弱いのはなにかに共通しているような気もします。

古い道具はまさに道具で、自分に使いやすいようにできたり、壊れてもガタが出ても単純なのですぐに自分で直せます。構造が単純なので他のものからの流用もできて、直す気になれば使えなくなるということがあまりありません。当然長く使えるので印象的な釣りの記憶とともに愛着も湧き、傷ついてもその傷が当時のことを思い出すきっかけになったりする訳です。徐々に自分で手を加えていく。これは趣味の道具としてはなかなかいいものだと思いませんか?

ところがいまの機械は砂を噛んでも、内部のバネが折れても自分で分解して組み立てるのはかなりやっかいで、部品の数も100どころじゃありません。メーカーに送って修理してもらう必要があります。また使い続ければ精密な部品は1〜2年でガタが出て使えなくなり、メーカーでは修理のパーツもなくなり、それでゴミとなってしまいます。愛着が湧く前にお終いっていうのは残念です。

それにどうも構成部品が多すぎるのは、いくら精度が良くて魚の当たりをハンドルを持つ指先でシビアに感じると言われても、部品点数が数えるほどでダイレクトにギアに繋がるハンドルを持つ、古いリールのほうが上のような気がするのは思い込みと錯覚かな?(^^;


そんなこともあって、最近はこの50年も前の会社が作った大森製作所のシェークスピア(アメリカの会社のために作ったものです)や、カージナル33、同3、PENNなどの単純なものがお気に入りです。