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宮城県石巻市へ(秋旅行2) [国内旅行]

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2泊目は宮城県石巻市へと向かった。目的の一つは「四季彩食 いまむら」。食いしん坊の相棒がネットで見つけて、「行きたい、行きたい」と実現した居酒屋。料理人の今村さんは世界各国をバックパッキングで周り、奥様も同様にあちこちを巡り今村さんと出会い、311の震災後にボランティアがきっかけで石巻に移住し、日本料理店をだした。

今村さんによる日本料理は、地元の生産者と密接な関係を築き、三陸の厳選された素材を仕入れているため、いつ訪れても旬の海の幸、山の幸を楽しめる。お酒もいろいろ用意されていて、相棒には極楽のよう。写真は撮らなかったので興味のある人は検索してみてください。値段とボリューム、味は間違いないと思います。

3日目は最後の目的地「石巻市震災遺構門脇小学校」に向かった。311の震災以来、相棒は「福島に行きたい」とよく口にしていたが、私が敬遠していたため実現しなかった。今回は福島じゃないけど、youtubeではわからないこともあるかもしれないと、相棒にしたがった。

宮城県の震災で記憶に残るのは「大川小学校」。海から離れていた大川小学校にいた児童は78人、教員が11人。うち74人の児童と10人の教員が、北最上川を逆流する津波にのまれて死亡した。が、ニュースで流れたのはあまりにお粗末な地震後の学校の対応だった。

ニュースの内容が全て正確だったとは思わないけど、他の学校では聞かないほどの被害があり、ほとんどの教員と生徒が亡くなったのは事実だし、その後の対応も酷かった部分が印象に残る。

門脇小学校は大川小学校と違い、海は目の前。その点危機感は海から離れた学校とは違っていたのかもしれない。校舎には地震から約1時間後に大津波が襲来。津波火災が発生し、校舎は炎に包まれた。

「なぜ津波で火災が?」と思っていたけど、押し流された多くの車が集まり爆発炎上となったようだ。ここ南浜・門脇地区では500人を超える方が犠牲となったが、小学校で犠牲となったのは地震後すぐに家族に引き取られた7人だけ。学校に残った生徒達が無事で、家族と一緒に帰った子供達だけが被災に遭ったのは不運だった。

石巻市は、震災の事象と教訓を伝え続けるために被災した校舎の一部を残した。この門脇小学校は津波火災の痕跡を残す唯一の震災遺構であり、避難を考えるとき垂直避難だけでは難しい一面があることを教員や子供達、親の言葉や映像、実物資料で伝えている。いっときの滞在ですむと思っていたけど、いざ多くの展示を見ているとあっという間に時間が過ぎていく。

私も海育ちで、子供の頃から歳の離れた兄に連れられ、泳げないうちから岩場で潜らされて5月の海に入りサザエやトコブシを獲っていた。

その兄に聞かされていたのは「地震があったらすぐに一番近い山に上がれ」「家には戻るな」「潮が引いたらすぐに津波が来る」「津波は流れが止まるが、その時に絶対に水に入るな」「津波の中では、見えなくてもいろんなものが流されていて泳げない」「津波は繰り返し来る」などと繰り返し聞かされた。

たぶん兄自身が津波に遭ったことはないと思うけど、あるいはチリ地震を経験しているのだと思う。自分では3歳頃からの記憶があるけど、4歳のときのチリ地震の記憶は残っていない。

しかし納得がいかないのは、なぜ大きな地震を何度も経験している東北の海辺の人たちの多くが被災してしまったか。私でさえ地震と津波はすぐに連想するし、大きな地震があれば高いところへ避難というのはわかっている。逃げる場所がないわけでもない地域の人が、低い平坦な場所で亡くなっているのは合点がいかない。

とはいえ、この門脇小学校の震災遺構の情報は貴重で、思うような避難ができないこと、津波の怖さが水だけじゃないことも学習できる。あまりゆっくりはできなかったけど、機会があれば行ってみることをお勧めします。


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